ベビ丸学習帳〜赤ちゃんと過ごす東京あれこれ〜

東京での子育てブログ。子連れで行けるスポットや保活のこと、子育て中に思ったことなど徒然なるままに。

しんどかった里帰り出産① 〜プロローグ的な。ちょっと複雑な家庭環境〜

こんにちは。

出産から早1年が経ちました。

娘が1歳になり、出産した時の感慨深さと一緒に、生まれて始めて母と喧嘩をし、心身ともにしんどかった里帰り出産を思い出しました。

あの時から心にずっとあるもやもや。どこかへ吐き出したくてブログ書きたい衝動に駆られては、「いやいや重い重い」と下書き保存→削除を何度かしてきました。

 

自分の心の整理のためにも、あの時に思ったこと、辛かったことをちょっとずつここに吐き出していこうかなと思います。

 

辛かった里帰りの理由には大きく分けて2こあります。1つは「居場所がない編」。2つめは「母と生まれてはじめての大喧嘩」。長くなりそうなので記事を何回かに分けていこうと思います。

 

今回はプロローグ的になります。わたしのちょっとだけ複雑な家庭環境の話を。

のちの母との喧嘩につながります。長いです・・・!

 

わたしの両親はわたしが3歳くらいのときに離婚して父親に引き取られました。その時点で兄弟構成は姉が1人と妹が1人。わたしは真ん中です。父親の実家暮らしで祖父母も一緒に暮らしていたので、祖母はほとんど母親代わりでした。

7歳くらいの時に父親は新しいお母さんを連れてきて再婚しました。新しい母との間にも1人子供が生まれて妹が増えました。

 

わたしたちが暮らしていた家(父の実家)は、とても田舎にあり通っていた学校のクラスの人数は10名ほどで、集落のような田舎町でした。街からお嫁さんになった新しい母にはいろいろ辛かったんでしょうか、小学生の途中から隣の市に家を建てて、父、新母、姉妹4人で暮らしました 。しかしその後しばらくして新母は両親の世話をしなくてはいけなくなり、一番下の妹を連れて実家に戻ることになりました。その後父親と一番下の妹だけ、新母の実家近くにアパートを借りて父親と新母と一番下の妹の3人で住み始めました。

残された3人の姉妹は父の実家で祖父母と暮らし、父親は新母のアパートと実家を行き来する生活に。隣の市に建てた家はしばらく空きになりました。

 

離婚した実の母とはずっと連絡がとれず、大げさですが子供のわたしには生死さえ不明でした。毎日スーパーで母親らしき風貌の人を見ると、母じゃないかとドキドキして顔を覗きに行き、がっかりしたりしていました。

ある日、実の母親がどうやってか姉に連絡をとりつぎ、父親に内緒で自分の電話番号を姉に教え、たまに連絡してねと伝えたようです。姉は喜んでわたしに母の番号を教えてくれました。わたしはメモ用紙をきりとった紙切れに、教えてもらった電話番号を書いてポケットに大事に入れていました。しかしその後、そのメモ用紙を父親の車の中に落としてしまい、母親とこっそり連絡を取り合っていたことがバレてしまったのです。「あれ、お母さんの電話番号の紙がない・・・!」そう思ったことと、「お父さんにバレたかも・・・!」と焦ったことは今でもはっきり覚えています。その後、母には父から電話があり勝手に連絡をとるなと怒られたそうです。

 

ーーーーー余談ーーーーーーーーーーーーーーー

不思議なもので、節目節目ではっきりと覚えていることってあります。3歳の時に母親が家を出て行く日のこともはっきりと記憶しています。その日母親はアイロンがけをしていました。下を向いて黙々とずっとアイロンをかけていました。父親が姉とわたしに「本屋さんに行こうか」というのです。いつもだったら何か買ってもらえる!と思って喜んでついていくのですが、その日はどうしても家にいたくてママと家に残ると言いました。しかし父親は頑なにわたしの腕をひっぱって、わたしは姉と一緒に本屋に連れていかれるのです。泣き喚いて「ママ〜」と呼んでも、母はずっと下をむいてアイロンをかけていました。その日本屋から家に戻ってくると、もう母の姿はありませんでした。母は3番目の妹を連れてどこかへ行ってしまいました。

 

今となっては母は実家に戻っただけでしたが当時子供だったわたしにとっては、あの日を境に「母は突然消えた」というふうに記憶していました。その数年後に3番目の妹を連れてまた戻ってきました。保育園から帰ってくると、久しぶりに母がいてとても嬉しかったのを覚えています。だけど母は乳飲み子を卒業した妹を置きにきただけでした。その日「忘れ物をしたから」といって家を出た母は、また戻ってくることはありませんでした。

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電話1本でも怒られるくらいタブーとされていた母との接触ですが、姉が高校生にあがるころ、わたしたち姉妹も大人になったから(といってもまだ中学生と高校生だが)ということでいきなり接触が解禁されました。姉と妹は嬉しかったのかたくさん母としゃべっていたのを覚えています。わたしは、ずっと会っていなかった母親に、まだ母親の実感をもてなくて、急に親しく話すこともできず、姉妹の中で一番実の母に人見知りしていました。

 

何度か会うようになり、姉妹全員がだいぶ母親とも打ち解けたある時、姉が父親と喧嘩をしました。もともと性格があまり合わなかった姉と父。姉は高校3年生になる春から母と一緒に暮したいと言い出します。

話し合いがあったのかどうかはわかりませんが、結局空き家になっていた隣の市に建てた家を母親に貸し、そこに母親と姉で暮し始め、父の実家には祖父母、わたし、妹、時々父親で住むことになりました。

 

そして姉が大学進学で県外へ行き、わたしが高校3年生になるころ、母親が家に一人になることから、高校3年生になったら母親と暮らすという変なルール(?)のようなものができて、次は私が母親と一緒に住むことになりました。(数年後、妹も高校3年生になったら住みました)

 

はっきりと記憶のある中でわたしが母親と生活を共にしたのは、この高校3年生の1年間のみでした。その後わたしは東京の大学へ進学し、たまにお盆や正月に帰った時に1、2回会う程度で、次に母と密着生活をすることになるのが、高校3年生から10年後、妊娠での里帰り出産前の生活になるのです。

(やっといまに繋がってきた・・・!)

 

ということで次に続きます。